高校生から視力の低下が一気に進行。
高校3年生の時、視力0.3くらいに低下(記憶)し、眼鏡を初めて購入。
TVゲーム、読書、勉強により、視力回復を試みるも低下が進み、卒業する頃には0.2くらいに。
視力は低下の一途。コンタクトレンズと眼鏡の併用。縮毛矯正もたまに。卒業する頃の視力は、0.08くらいに。
視力回復しようと、眼球体操やブルーベリーをたくさん食べるも回復せず。
ピンホール眼鏡も毎日かけてました。
立体視トレーニングもやったりしました。
遠近法ももちろん試しました。
しかし、インターネットが普及してパソコンを見る時間が増加してましたので、全く効果なく(涙)
札幌学院大学を卒業し、就職氷河期の中、大手製造小売業へ就職。
ロストジェネレーション世代です。就職したものの、変わりはいくらでもいるというブラックな空気の職場環境で鍛えられました。
最初は店舗で販売員からスタート。
眼鏡とコンタクトを併用。
サービス残業、休日出勤が普通の時代でした。
会社は急成長し、希望と活気はありました。
札幌→富山県→福島県→奈良県→兵庫県
転勤族でした。
4年目に副店長になり、月100時間くらいの残業が当たり前の日々。
休日出勤も多数。
辞めたいけど、なかなか安定した会社員を手放せない葛藤の日々。
コンタクトも辛くなり、レーシックを受けようか悩む日々。視力0.05まで低下。
この頃の自社製品の品質は悪く、苦情品の対応に追われるストレスMAXの状態。
この頃のマイブームは、プロジェクトXのビデオを見ることでした。エンジニアに憧れる。
引き寄せなのか、毎日プロジェクトXを見て感動する日々を過ごしていたら、本社の品質改善プロジェクトに召集されました。
自動車業界で品質の神と呼ばれていた伝説の技術者を専務として迎え、技術指導を受けて、奇跡のようなスキルアップに成功。
本社で不良品の解析、新規開発商品の技術評価、海外工場の品質指導を行うようになりました。
東京勤務でしたので、レーシックも受けやすく、レーシックブームの時代に、レーシック手術を決断。オルソケラトロジーも目にコンタクトレンズを入れて寝るというのが面倒に感じてレーシックを選択。
術後、1日中、目が痛くて開けていられない状態でした。
病院へいくと炎症物質を除去しないと視界が濁ったままになるからと、翌日再手術となりました。
再手術は無事終わり、クリアな視界を取り戻し、感動体験をしました。
しかし、ドライアイになったのと、結膜炎になりやすくなるという副作用がありました。レーシックは今なら絶対僕は受けません。当時は他の視力回復方法を知りませんでした。
●品質改善、ものづくりの分野のスペシャリストを目指したいと思い関東にある某科学研究所へ転職。
2年目に優秀従業員賞を受賞し、グループリーダーに昇格。
実験、レポートの作成により、一度上がった視力が少しずつ低下。
レーシックは、外れないコンタクトレンズをつけているようなものであり、目が健康になったわけではありません。当然下がります。
1.5→1.0→0.8→0.6まで下がる。
※あくまでも個人の体験であり、全ても方に効果を保証するものではありません。
6年目に、ペーパーレス化によるデジタルシフトが加速し、パソコンを見続ける毎日の中、視力が落ち、さらに、近くのピントが合わなくなりました。
一気に進行しました。パソコン表示を拡大してごまかしながらやり過ごすも好きな本もまともに読めない…。
いわゆる老眼です。早すぎる…そして、まだ老眼鏡はかけたくない。
治るんじゃないかと期待して眼科の病院に行くも、2件の病院ともに老眼認定と治ることはないと太鼓判を押されました。
それでも、諦めることができなくて眼の構造を自分で研究してみると、直観的に「これは治るんじゃないか」と閃きました。
眼の筋肉が凝り固まって弾性を失って動かない状態になっているなら、また柔軟性を取り戻せば回復も期待できると。
アーユルヴェーダなど様々な視力回復の方法を探していく中で見つけたのが、超音波による血流改善と柔軟性を改善するメソッドでした。
1か月後、視力1.5に回復し、老眼も消えていました。
地元札幌の父が2021年12月に亡くなり実家が空き屋になりました。
実家をどうするか決めなくてはならないタイミングで、
北海道の人々の視力回復を今後の人生の使命と直感的に感じ取り、研究所を辞めて地元で独立開業することを決意。
札幌健康改善研究所を、実家を活用して開業しました。
今後の人生は、北海道の人々、日本の人々の視力回復と健康をサポートすることと決めました。
眼科と異なる眼のケアができる当研究所へ是非お越しください。